金沢山岳会 会報 151
発行者:吉川信雄
編集者:平富人



▲東北の山 創会55周年記念登山▲ 2003年10月11〜13日 

 記録 桶川


 東北の山は優しい山である。ふっくらとして暖かく、笑みをたたえ両手を広げて迎えてくれる。登るのではなく、いだかれる・・・という言葉こそふさわしい。
 今回は金沢山岳会の55周年記念行事とあって、会長を始めとして22名の賑やかなパーティーで行く。選ばれし山は磐梯山、安達太良山、吾妻山の会津三山。日程の都合で吾妻山は東端の吾妻小富士を最終日に立ち寄ることとなる。これらの山々はどこから登っても又どこへ降りても温泉が楽しめる。




 10月11日(土) 晴れ 磐梯山

 早朝、乙丸貨物ターミナルへ集合してマイクロバスに乗車する。北陸自動車道、磐越自動車道を経由して磐梯山ゴールドラインに入り、片道500km、6時間の里程をこなし、登山口の猫魔八方台に到着する。乗り入れる駐車場は満車に近い。準備体操と点呼を済ませて出発する。明るい林の中の広い道を歩く。緩やかな登り坂、かすかな腐葉の匂い。藪の中に木漏れ日が射すと、そのきらめきに合わせるかのようにチチュ、チチュと囀りながら小鳥が飛び出してくる。道端には何某かの祠がある。

 硫黄の匂いが強くなり、広みに出ると真っ白い池がありプクプクと泡が立っている。手を入れると温かい。中ノ湯跡の「地獄」であろう。周辺の樹木は色づいている。白い池のキャンバスに木々の緑や葉の赤、黄色、バックには群青の空がある。そよ吹く風さえも映り込みそうである。

 ここから登山道は狭くなり、傾斜を増してくる。尾根道に出ると北の下方に五色沼、その周辺の桧原湖、小野川湖、秋元湖などを遠望する。明治21(1888)年の磐梯山大爆発によって形成された風景と聞く。箱庭のような絶景だが、落ち着いて見られない。週末のせいか人が多く、すれ違う人々に挨拶をするのも疲れてくる。200人近くの足音を聞いただろうか、一旦下って少し登ると弘法清水に出た。売店のみの小屋が二軒ある。冷たい清水で喉を潤し、急坂を登る。西の下方に、バリカンで頭を刈ったようなアルツ磐梯スキー場のゲレンデが目に入ってくると、やがて頂上である。

 標高1,818.6mの頂上には40人近くの登山者がいる。吹く風は冷たいが、展望は良い。北に吾妻山、南に猪苗代湖、東に安達太良山、その向こうは二本松の市街、更に彼方は太平洋であろうか。頂上には磐梯明神の石碑と、もう一つ星高天原命の祠がある。星高天原・・・いつの時代、誰が名付けたのであろうか。ある夜、山に登る。漆黒の闇の中、足元の空間だけが広がり高さを得て、星に近づく。自分には、幾千もの星の輝きが雨のように降りそそぎ、涙となって流れ落ちる。星ハ高ク天ノ原ニ。

 記念撮影とセレモニーを済ませて足早に下山する。先程の弘法清水から、お花畑コースを廻って元の道に合流する。秋の今、咲いている花はなく枯草のみの情景である。早く降りすぎたので時間調整のため、中ノ湯跡の「地獄」で足湯を楽しむ。全身浴をするには狭い。頂上で会った4人組のヤンキーが降りてきたので誘うと、内1人がチャレンジするそうだ。

 秋の日暮れは早い。駐車場へ集合し、真っ赤に染まる五色沼を横目に見ながら、今夜の宿へと急ぐ。
宿は、安達太良山山麓の中ノ沢温泉「花見屋」である。少し古いが、レトロマニアには好評を博するかもしれない。湯が良い。近所でも評判の湯だそうだ。飲んでみると、レモンのような酸っぱい味がする。金沢市内にも「レモン湯」という温泉銭湯があるが、レモンの味はしない。さて、湯は熱いくらいだが外の露天風呂はややぬるめで心地よい。混浴ということになっているそうだが、殿方湯と姫湯との間には岩の低い仕切りがあって、見えるような見えないような中途半端な構造になっている。更に、ある場所には両者間を行き来できる狭い通路があるのだが、これまた行って良いのか悪いのか悩むこととなる。「通」に言わせると、姫が来るのは可、殿が行くのはダメだそうだ。しかし、「通の通」に言わせると・・・まあ、あまり力説するほどのことでもないか。

 湯から上がると宴会が待っている。一通りの挨拶を済ませて、飲めや歌えのドンチャン騒ぎ、いや、少し上品なお騒ぎでした。でも食い放題の飲み放題、ここで、連泊をするのだよ。酔ったついでに一家言。民謡、会津磐梯山の囃子詞の中に小原庄助さんが出てきます。「朝寝、朝酒、朝湯が大好きで・・・」ですが、これを一度にやろうと思うと難しい。朝寝をしていると昼になってしまう。それで、漢文を訓読するように逆さ読みをして、まず早起きをして朝湯に入り朝酒をあおる。すると体の外、心の内まで温まってゆっくりと朝寝ができるのです。つまり「朝寝をするには早起きをしなさい」と言うことなのですね。では、おやすみなさい。

 猫魔八方台(12:20)→弘法清水(14:10)→磐梯山頂上(14:40)→猫魔八方台(16:40)





10月12日(日) 雨のち晴れ 安達太良山

 中ノ沢温泉からすぐ隣の沼尻温泉を通り、上部の沼尻スキー場のデコボコ道を登ると沼尻登山口に着く。入り口に大きな慰霊碑が建っている。平成9(1997)年9月15日、都内の理容業の登山愛好団体「にじの会」14名は沼尻登山口より入山する。霧のために道を失い、沼ノ平付近で危険地帯に入り込む。危険地帯とは、前年度の調査で火山性有毒ガスによると思われる動物の死骸が発見された場所で、警告が発せられていた。まず3名が倒れ、助けようとした1名も倒れた。全て女性である。救助隊が駆けつけたときには既に4名とも死亡していた。空気よりも重い硫化水素ガスによるものとされた。

 今回の登山道は古い地図には載っていない。この遭難事故をきっかけに新設されたものであろう。雨具を着用し、歩き始めてすぐに清楚な感じの白糸ノ滝が見えてくる。そこからしばらく行くと左手、谷の下方に湯の花採取場の小屋が見える。周囲の紅葉と調和して、絵画を観ているような気がする。ここは旧硫黄鉱山で、明治33(1900)年の安達太良山噴火時には72名の死傷者を出している。沼尻登山口からの旧ルートは、沢沿いに登ってきて硫黄鉱山の少し上部で二又になる。左は、胎内岩から鉄山避難小屋へのルートで今も使われている。右は、沼ノ平ヘ入り更に途中で分かれて一方は船明神山へ、もう一方は馬ノ背に出てくろがね小屋に下るルートである。このルートは現在、通行禁止になっている。



 さて、安達太良山はその発音からダラダラとした緩やかな斜面をイメージしがちだが、ここからは急登である。滑りやすいぬかるみの急坂を登る。汗が噴き出してくる。雨具を脱げば雨に濡れる。汗をかかないように歩くのはなかなか難しい。足元の黒い泥に落ちた紅葉が、鮮やかに目に映る。漸く尾根に抜けると、断崖に沿って水平道が続く。霧のために谷の下方は見えない。障子ケ岩と名付けられた岩稜地帯の通過はスリルがある。山腹を巻くようにして船明神山の岩場を過ぎると主稜線に出る。霧が少し薄らいで、乳首と呼ばれる山頂部が見え隠れする。今日のような雨天に登山するのは馬鹿な我がパーティーくらいだろうと思っていたが、なかなかどうしてかなりの馬鹿がいる。大きな幾つものケルンに沿って頂上直下に着くと「雲散霧消」を地で行くようにパッと明るくなって乳首の全容が現れた。しかし乳首は、少し離れて先程のように霧の中から見え隠れするほうがイメージに合っている。この乳首から安達太良山の別名を乳首山と言う。その乳首は男性、女性のどちらだろうか。乳首を連想させる山は多くはない。秋田駒ケ岳の北部に乳頭山(1,477.5m)がある。正式名称は烏帽子岳で、烏帽子と名の付く山は全国に100以上ある。他には小笠原諸島の父島に乳頭山(272m)、母島に乳房山(463m)がある。乳首と烏帽子、父の乳頭と母の乳房、そのようなことを考えながら登るのも一興ではないか。

 頂上直下は人、人、人で120人以上を数える。それでもなお、あちこちのコースから陸続と上がってくる。砂糖の山に群がる蟻のように乳首の岩塊にも多くの人が蠢いている。甘美な光景だ。我々も蟻となって攀じ登り、安達太良山1,699.6mの山頂に達する。雨上がりの今、視界は開けて緑の柔らかな山肌のうねりを周囲に見渡せる。山々の中腹はルージュを引いたように色っぽい。誰かが叫んだ。「綺麗、綺麗、綺麗!」
 山頂には安達太良明神の祠と、それより大きい八紘一宇の石柱が建っている。八紘一宇とは太平洋戦争のプロパガンダで、出典は日本書紀と聞いている。それがなぜここに建っているのだろうか。石柱の背面には紀元二千六百年、昭和十五年八月安達郡青年団建之とある。昭和15(1940)年と言えば、前年にドイツがポーランドへ侵攻して第二次世界大戦が勃発、当年は日独伊三国軍事同盟が調印され、翌年には真珠湾攻撃によって太平洋戦争に突入している。八紘一宇とは「世界は一つ」との意味合いで、現代で言えば××財団の「世界は一家、人類は兄弟」や××教団の「世界人類が幸せでありますように」とのマントラ(真言、呪文)に近い。当時、欧米勢力に対抗するために八紘一宇を思想基幹として大東亜共栄圏というアジア統一国家が提唱された。しかし理想と現実は乖離し、昭和20(1945)年に大日本帝国は崩壊した。二本松市の「あだたら山の会」渡辺正氏によれば、二本松市の周辺や安達郡には青少年による安達太良登山の伝統があり、戦前の青年団などでは登山を団の規約として謳っているところさえあった。こうした風潮の中で紀元(皇紀)2600年を記して安達郡(恐らく郡内連合) 青年団が石材の加工、運搬をして8月14日に建碑、除幕をしたと言う。(二本松市史、福島民友新聞を史料とする)

 ちょうどお昼時だったので一時間ほど昼食休憩し、野地温泉に向かって下山を開始する。左手に大きな火口を覗きながら鉄山を登り、鉄山避難小屋から緩やかに下ると笹平に出る。名の通り笹の原っぱで、笹の緑と紅葉が対照的な美しさを見せている。長時間いると、身も心もその色に染められてしまいそうだ。一旦登って箕輪山からは急下降する。狭く深く抉られた道で、しかも朝の雨でぬかるみとなって滑りやすい。雪があればボブスレーのコースとして使えそうだ。かなり下って再び登り、鬼面山に着く。眼下に野地温泉の建物や駐車場が見えてきた。最終ルートを惜しむようにゆっくりと降りて温泉に到着する。

 回送させてあったマイクロバスに乗り込み、昨夜の宿へと帰館する。気を持たせる露天風呂と豪華宴会が待っているぞ。
沼尻登山口(8:30)→船明神山(10:45)→安達太良山頂上(11:20~12:20)→箕輪山(13:50)→鬼面山(15:00)→野地温泉(16:00)




10月13日(月) 小雨 吾妻小富士

 今日は帰還日だ。吾妻小富士へ立ち寄る予定だが小雨と霧ではどうだろうか。磐梯吾妻スカイラインに入り、レストランや売店のある浄土平の駐車場まで行く。ここから吾妻小富士1,700.0mの山頂まで20分程で行ける。小雨と霧の合間を縫って火口壁を巡る。小富士の名の通り小振りだが、一般的に五合目から登る富士山と比較するとここは九合目から登る計算になる。勿体無いと思う。

 さあ、お土産を買って家に帰ろう。マイクロバスの運転手は本田克也氏だ。三日間、ご苦労様です。JRマンだけあって「運行表」と殆ど狂いがない。
もう一つ、Tさんが広めた「キレイ、キレイ、キレイ!」ですが、今年の流行語大賞にとの話があります。表彰のほど宜しくお願い申し上げます。

 最後に疑問が一つあります。30年前の地図と比較して、磐梯山の高さは同じなのに安達太良山は40cm低くなっています。なぜでしょうか、どなたか教えて下さい。


編集者より
 参加者名簿など詳細データは後日掲載致します。
なお、参加された方の、写真、感想等は随時募集しております。




▲皇海山▲ 2003年9月14〜15日  記録 平


庚申山付近からの皇海山 「平は一度くらい、私を山へ連れて行ってもいい筈だ。」と妙に平然と威圧的に言われて、やむなく
2人で山へ行った。

 初日は早朝に金沢を発ち、午後1時半、足尾の銀山平に到着。一時間以上林道を歩き、一の鳥居から入山した。下山する人たちと挨拶を交わしながら庚申山荘には午後4時に到着。古くからの登山道でよく整備されていた。山と言うより森の奥に入る感じか。山荘の背後に聳える庚申山の岩峰がすばらしい。


 庚申山荘は管理人こそ常駐していないが、寝具まで備えたりっぱな造り。炊事場も屋内にあり、申し分のない山荘だった。(宿泊料2000円をポストに入れる。)小屋にはわれわれ同様、明日皇海山を目指す登山者が20余名。静かな山の夜を楽しんだ。

 530分、山荘を出発、装備は日帰り。天候は晴れ時々曇り。庚申山へは岩峰を縫うように進む。威圧的な巨岩、壁で古くから信仰の山であった事も納得できる。けれど、山頂はそれとは異なり、シラビソの林に囲まれた平凡な地学的な最高点にすぎない。

 駒掛山、薬師岳を経て鋸山に到着したのが10時頃。途中、やっかいな鎖場もあったが、事故の要因となるのは、むしろ明るすぎる林だろう。うっかりすると登山道から外れていることに気づくのが遅れてしまう。

 不動沢のコルで群馬側からの登山道と合流する。いっきに登山者が十倍以上にもなる。推測だが、不動沢コースは入山してから山頂まで、一度も皇海山の山容、山頂を見ることが出来ないのではないか。その前の長すぎる林道。こんなくだらない登山道は廃道にすべきだ。

庚申山荘 六林班峠へ 何処までも続く笹原 明るい森


 コルから皇海山山頂までは
1時間のゆったりした登りである。が、しかし、私はすごくしんどかった。次々と私を追い越して行く人。相方までもが私を見捨てて先へ行ってしまった。「なんてやつだ、今私が心筋梗塞の発作を起こしたら…。」ブツブツ言いながら一人でバナナをほおばった。

 ようやくの事で皇海山山頂に着く、1130分。しかし本日の行程のまだ半分にも達していない。小休止程度で下山にかかる。コルへ下り、鋸山を登り返す。そこから女山、六林班峠を経由して庚申山荘に還る事とした。

 六林班峠のコースはまるで人の気配がない、全行程が熊笹の海だ。所によっては胸までもある、まさに泳ぐ感じ。どこまでもどこまでも笹が続く、雑木林が発達していないのでとても明るい。こんなのが3時間以上続くのだ。相方を後ろにするほど私の体調は回復し鼻歌まじりでグングン進んだ。午後4時、庚申山荘着。静かな山荘前で暖かいスープを飲んで、荷をまとめるとあらためて下山。

 金沢着は深夜130分だった。帰りは、とにかく眠かった。